☆☆☆☆行事予定☆☆☆☆

2013年9月1日日曜日

ご縁ですよ!

今朝、散歩中に親父の従兄弟の奥さんにお会いして
「この前の石取り良かったね〜。実家の親戚の後藤さん(掛樋の自治会長)の名前があったので
この前聞いてみたら」
「斉藤さんが、芳ヶ崎とお付き合いがあるみたいで寄させていただいたんですよ」

従兄弟の奥さんは、私が結婚式の時にいろいろとお世話になった方で

「昔はよく、芳ヶ崎の祭車をおかりしに来ていたんですよ。せ〜ちゃん(斉藤さん)家の向かいなんやよ、 どうして知り合いなの?」
「親父のバイクのお友達でして、いろいろと今回の石取りで大変お世話になったんです。」
「そ〜、ご縁やね〜」

川原祓い祭の時から、フェースブックでお友達となった水谷重亮さん
芳ヶ崎の石取りの事をよく知っていて、勉強させていただいてます。
内容は、この様な
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石取祭車研究会 祭車覈隱(さいしゃかくいん)第二輯 137頁に、
「掛樋だ!!逃げろっ!!」と言うものがある。
ここに書かれている物を要約して書くと、

第二次世界大戦終戦後に祭車を焼失した桑名の町々、
当時は戦争前に桑名より他地区に渡り、戦火を逃れた祭車をレンタルして祭を行っていた。
桑名町屋 第九組 掛樋が戦後祭車を借りたのが芳ヶ崎。
当時の桑名の石取祭の祭日は7月10~12日であったのだが、それでも掛樋の青年は燃え尽きずに、
芳ヶ崎の盆に行われていた祭に、掛樋の青年全員が祭装束で来たというのである。
地元、芳ヶ崎青年団は太鼓の順番がなかなか回ってこない為、たまったものではない。
この状態が2年続いた為、3年目に拍子を変えてしまったという。
この数年後に芳ヶ崎は祭事休止に移行したと言うことも書かれている。

芳ヶ崎が祭事休止したのは昭和40年頃と言う話を聞いた覚えがあるので、
戦後であれば昭和30年以前に休止しているであろうことで話の辻褄が合わない。
推測ではあるが、伊勢湾台風後であれば辻褄が合うのだが、
芳ヶ崎、掛樋のどちらかに記録が残っていればと思うのだが。
大体、自治会台帳等があればこういう話は乗っているはずである。

上記の話の中に拍子の変更があるとあったので、今の芳ヶ崎の石取拍子は昭和20~30年代に変更された後のものである事がわかる
現在、芳ケ崎自治会のHP(ブログ)
http://kuroganemoti.blogspot.jp/2013/07/blog-post_21.html
内に現在の石取拍子が出てくるのだが、

桑名町屋 第十組 馬道(旧、東馬道)の拍子の最後に「||○○||」を一つ加えた拍子になっている。
参照動画として。
http://www.youtube.com/watch?v=-jqM90JgbPM

ここで気になるのは変更前の拍子である。
単純に言って「摺り込み七ッ拍子」であろう事は容易に判断がつくのだが、
確証は無い。
すると不思議になるのは祭車は第三組 風呂町で、
風呂町の拍子は新節五ッ拍子であるのに対し、
芳ケ崎に渡って使用されていた拍子が摺り込み七ッ拍子であれば疑問符が浮かぶ。
新節五ッ拍子であれば、拍子の違う掛樋の青年が押しかけている点が矛盾するのだが・・・
これも、当時芳ヶ崎に祭をしに行っていた掛樋の青年が覚えているか、
芳ヶ崎に元の拍子の楽譜が残っていればわかるのだが・・・


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と、言う事で掛樋とのつながり!納得っすね〜

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